【青の残照】
6月の日暮れ時に訪ねたいつもの喫茶店には、
朝から降る雨音が、静かにひっそりと響き、
カウンターに置かれる小さなランタンは、
薄く漂う紫煙をオレンジの火で牽制し、
佇む店主の短い白髭を淡く照らす。
店の奥に構える古めかしい柱時計は、
さながら孫と遊ぶ老爺のように、
店を見守りながら時を刻む。
花壇をはさむ窓際の一角は、
誰にも見えない透明な幕に包まれ、
店に流れる小さな音楽すらも殆ど届かず、
この席の、軋む栗色の椅子に座る者への
格別な一時を与える不可思議な静寂がある。
目に映るものは、とうとう霞みはじめた
忙しない世界、それひとつしかない。
雨に打たれるグラジオラスは
薄い花弁をガラスに張り付けたまま、
凛々しいグラディウスの威厳を忘れている。
薙ぐような風についに負け、仕事を放棄した傘を、
それでも大事と両手で掴み、大きな雨粒に打たれながら
家路を急ぐ人々の瞳に、この店が映ることはない。
ズボンの裾が、革靴が、そしてもはや全身が
雨に打たれ濡れているにもかかわらず、
誰もこの店には立ち寄らない。
お気に入りの本は濡らすまいと、
雨宿りにと偶然に扉を開いた
遠い6月の、鮮やかな記憶。
まだピンと張っていたメニュー表に、
初めて見る片仮名の羅列に、
適当に指差した日。
ふっくらとした顔には
いつしか皺が刻まれ、
しなやかな指は
次第にかたく、
軽快な声は、
年月とともに、
低く、小さくなり、
私はあの古時計のように、
ゆっくりと穏やかに歳を重ねた。
あの日と同じように、メニューを指差し、
草臥れきった文庫本を広げ、
栞紐を一撫でし、
溜息をつく。
雨風はやがて去り、
銀色に輝く月が顔を出す。
老いた人が白煙の向こうへ往き、
外海を求めて生まれる命のように、
営みはひとつも変わらず、ここにある。
深い珈琲の香りを記憶へ刻みこみ、
此処の全てを
焼きつけたなら
いま、黄昏の時は終わる。
二度と訪れることのないこの窓辺に、
私は影ひとつ残さず、席を立ち、
杖の音とともに店を発つ。
雨はやみ、雲は霽れ、
孤高の月が夜空に浮かび、
無数の星が煌めく瞬間、
私の針が動き出す。
ついに天の空も宵のころ、
私が最後にふり向けば、
そこには見送る、
青の残照。
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(2010.6.7)
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